どうも、大学院生博士ブロガーのともよし(@tomo141)です。
“勉強しか取り柄がない”、こういう人は、出てきて仕方ない。
“勉強しか取り柄がない”学生を、“使える人間”に育てる責任は、どこにあるのか?
「勉強しか取り柄がない」高校生は、難関大学に集まってくる
- 人とコミュニケーションをとることが苦手
- スポーツや芸術の世界でも得意なことがない
- かといって趣味もない
こういう人でかつ、勉強がたいして苦ではない、という中学生、高校生がいたら、そのハテは“勉強しか取り柄がない”だ。
成績がよければ、家族や社会にわるく言われることもあまりない。
人と話せなくても、スポーツなどの取り柄がなくても、勉強ができればその子自身も「まあいいのかな」なんて思ってしまう。
成績が良ければ、難関大学に行くだろう。
こうして、難関大学には、“勉強しか取り柄がない”学生が集ってくる。
勉強ができても、研究者としては「使えない」人間
「勉強ができれば、研究もうまくいく」
そう思う方もいるかもしれないけど、全くそんなことはない。
もちろん、勉強ができて研究ができる人はたくさんいる。
勉強ができて、人とコミュニケーションができて、仲間と協力し合うことができる。こういう人間は、研究もうまくこなすことができる。
でも、勉強ができるだけの人は、むしろ頭が硬すぎたり、柔軟性がなさすぎたりで、むしろ不利になることが多い。
答えが決まっている受験勉強に慣れた頭には、新しいことを発見し、新しい創造する能力はない。
予想通りに進まなければそこで思考停止。うまくいかない連続である研究をやっていると、心が折れる。病む。
難関大学には、勉強しか取り柄がないって高校生が吹きだまってしまう。
— ともよし@大学院生博士ブロガー (@tomo141) 2017年3月4日
こういう子は、なかなか研究には適応できない傾向がある。
この問題をどう解決するか。
解決は、簡単ではない。
どうすればいいのか、わからない。
「勉強しか取り柄がない」学生を「使える人間」に育てる責任は、大学にあるのか?
大学は、教育機関。
勉強しか取り柄がない。
こういう子は、難関大学に集まる。
そりゃあ大学が、“勉強しか取り柄がない学生”を“使える学生”に育てられたら効率がいいだろう。
ただ、使える学生へと育て上げる責任は、大学だけにあるわけじゃない。
親にも責任はある。社会にも責任はある。ぼくにもあるだろう。そして、あなたにも。
(他人のせいにしてばっかりの人はよくない)
あなただって、なにか手助けができるかもしれない
勉強しかできない、という子は、難関大学に集まる。
— ともよし@大学院生博士ブロガー (@tomo141) 2017年3月4日
だからこういう子を「使える人間」に育てる責任が、難関大学にはあるんだろうな。
そしてぼくらブロガーも、勉強しかでいない「使えない」人間を助けることができる。
— ともよし@大学院生博士ブロガー (@tomo141) 2017年3月4日
ぼくらも、助けることができるはずである。
ぼくは、難関大学に入って、“使えない人間”を見てきた身として、なにかできることがあるんじゃないかと思う。
「勉強しか取り柄がない人」を集めてなにかできないかな〜・ω・
— ともよし@大学院生博士ブロガー (@tomo141) 2017年3月4日
解決策を模索しながら、研究を続けていってみたい。
何か案があれば、コメント、リプライ、はてなブックマークをください。